ぼくは厄介な転校生(その1)
私は臨機応変に生きてきたつもりである・・・別の言葉にすれば「行き当たりばったり」
なぜそのような性格・生き方になってしまったのかを自分なりに分析しつつ、さらになぜ医師になったのかを、自己弁護及び自己分析的に書き残しておこうと還暦過ぎになって思い立った次第である。
父の職業が基幹産業のサラリーマン(旧制ナンバースクール卒、帝国大学卒、文系)、東京の三田生まれの三田育ちの度胸一番、男は強く、宵越しの銭は持たない環境で育った母の長男として育ったことも私の人格形成に影響があったことは間違いない。
なんせ勉強なぞしなくても当然勉学は優秀であろうと考える父、お父さんの子どもなんだからそれなりに勉強はできるだろう、と考えていた母。
しかし、今の自分のキャラを作り上げたのは高校時代であったと思う。
実は私は中学受験をしないで開成高校を受験した、開成内で呼ぶところの「新高」(高校から入ったことを意味する)なんです。同級生さえ卒後40年以上を経ても「桑満って高校から入ったの???」と言われるくらいのレベルで質実剛健・開物成務精神に毒されている可能性もある。
自分がどのような中学生活を送って高校受験をして開成高校に合格し、医師になったのかを今受験勉強をしている中高生や親御さんに知ってもらえれば自己満足的に至福を感じる。
父の仕事の関係もあり、地方から転校生として東京の世田谷区立の中学に2年生の春から入った。舐められちゃいかんと制服はびっちりのオーダー品、髪型も当時はやっていたちょっと前髪を上げたアイビールック風で登場した私に世田谷の区立中学の同級生はビビりまくった・・・当時、地方の不良の象徴の流派の一つであった制服のスラックスが先細りのスリムタイプであったからだ。さらに制服の下のシャツは当然のことにボタンダウンであったことが一悶着を起こしてしまった。
担任の教師も私の姿に驚いたようで教員室に呼び出されて不吉な言葉を私に伝えた。「桑満は知らないとは思うが、うちの中学は民族派の中高大学の通学路になっている。お前、その格好だと間違いなく絡まれるぞ!」・・・そうなんです、当時民族派のガッチガチの硬派の学校として知られていたK中学、K高校、K大学がすぐ近くにあったのです。彼らが通学に利用するO急線のUヶ丘駅は朝になると先輩を迎える後輩がズラーっと並んで大声で「押忍!押忍!押忍!」と先輩が通過するまで直立不動の姿勢で対応するという今では信じられない光景が毎朝、毎夕繰り返されていたのであった。
次回に続く。