新年を迎えるにあたって心の底から「食っちゃ寝」生活は宜しくない!
当然の答えを導きだした私です。
普段、昼食も摂らず、テレビもほとんど見ない生活を送っていますが年末年始に渡って規則正しい生活?で三食きっちりいただき、その後はゴロンと横になってスタートレックから始まりヒストリーチャンネルに終わる暮らしを一週間続けたら、なんと体重が4キロも増加していました。
不規則な生活のススメから食べない生き方まで、むちゃくちゃな健康本の氾濫
コリャいかん、と思いしっかりと朝食をとりながら(そういえば朝食も通常勤務のある時はほとんど食べないなぁ)、新聞を広げたところ広告はとにかくやたら健康ネタばっかり。
もちろん言論出版の自由のある日本ですんで、どんな本を書いても良いですし、出版するのもOKですが内容がどれもこれもバラバラ。ケトジェニックダイエット、炭水化物制限ダイエットなどは昨年ブログに書きましたが、粗食を薦めるものやなかには「食べない」生き方なんてタイトルのものまで登場していました。さらには「病気」と「健康」の法則と題して、人間はたまには不規則な生活をすることを薦める内容のものまでありました。その上、食べたものを食べたいだけ食べてもやせられる方法を唱えた本まで目に入ってきました。
それらの本を出版している会社がなんと同一という驚きは「都知事選に田母神さんと宇都宮さんが立候補するけどどっちに投票する?」と言われているような状態であり、このなかから取捨選択しなくてはいけないという究極の選択を強いられている状況です。
これらの本はこれから購入して内容が為になるものなのか、disるべきものなのか楽しみにしています。これらを出版している会社って以前、非科学的なものいかにも科学的なものに見せかける「波動系」とかの会社だったような気がしますが。
科学と非科学の境目⋯それは反証できるか?
科学と非科学の決定的な違いは「反証できるか?」なんです、実は。哲学者であるカール・ポパーという人が唱えたものですが、何回も実験を繰り返して反対の結果が導きだされたらその理論は間違いであった、と言えるものが「科学」であるということです。
逆に考えると何回も理論を実証する実験結果がでても、逆の結果が出てしまった場合はその理論は否定される可能性が出てきてしまうのが「科学」なんです。
数学は証明がされているものは真理なんですけど、科学の場合は一時期はほとんどの人に肯定されていた問題がある反証によって否定される場合もでてきます。医学の歴史はいかに医学を科学的に表現するか?科学的に証明するか?という歴史でもあったのです。
しかし、人体のすべてが判っている訳ではないのに、様々な理論によって病気を証明しようとして、薬などの効果は数学的な手法を発展させた統計学的な処理によって有効性を証明しています。医学=科学と捉えた場合、ある理論が唱えられたら必ずそれに反する理論を唱える人が出てきてしまうのは当然の成り行きです。
医学に真理はあるのか?
私がいくらブログで世の中の間違った医学情報をただす内容を書いても、間違いなく反証もでてきます。その反証に対する反証も出てきます。真理が証明できないために様々なデータの解析や実験・研究が行なわれて進化してきたのが「医学」という言い方もできます。
なんでこんな「頭の中が都知事選状態」になってしまっているのか、というのは「生命って何?」という素朴な疑問が私の年末・年始のだらしのない(それも健康法の一つとうのもありそうですが)生活の中から湧き出てきた大問題なんです。
どんなに医学・科学が発展発達しても「生命」を新たに生み出すことは現時点ではできていません。また「命って何?」的な小学生レベルの問題にも私なりのスッキリした回答は得られていません。となると宗教的な話になってしまって、なんとも不思議な気持ちで新年を迎えた私です。
でもよく考えてみると中世に科学が発展した切っ掛けだって、反宗教的なことではなく神の存在を科学的に証明しようとした動機が大きかったはずなんで、私の迷宮に入り込んだ気持ちも方向性としては間違っていないような気もします。